閉じつつ開く。開きつつ閉じる。新しいコミュニティのかたち
話し手:石田喜美さん (常磐大学専任講師)
あるときはカフェスタッフとして、またあるときは、「書く。部」の顧問として、そしてまたあるときは研究者として高校生ウィークに関わってきた石田喜美さん。石田さんは教育学の立場から、高校生ウィークにおける人々の学びを調査してきました。そんな石田さんは、高校生ウィークがこれからの社会に求められる新しいコミュニティだと考えています。
はじめて高校生ウィークに参加したのはいつですか。
2005 年の「自由喫茶・自由工作」ですね。このとき、ちょうど修士論文を書いた直後の時期で、その関連で、10代の人たちが自分たちで集まって学びあったりする環境に興味があったんですよね。
「自由喫茶・自由工作」にお客さんとして来たときに、「あっ、そういう場所がここにあるな」って思ったんです。だから、研究してみたいとは思ったんだけど、どこからコンタクトをとったらいいかわからない・・・。
そんなとき、たまたま、いまや「ミスター高校生ウィーク」とも呼ばれている山崎(一希・ブルーカレント・ジャパン AAE/元茨城大学大学院)くんが、高校生ウィークについて書いたレポートをホームページ上にアップしていたのを見つけたんです。それを読んで、「研究的な視点から高校生ウィークを意味づけている人がいるんだ!」と思って、それまでまったく関わりのなかった山崎くんにメー ルでファーストコンタクトをとったんです。
そしたら、山崎さんが樋口(雅子・東北芸術工科大学広報室/元水戸芸 術館現代美術センター教育普及担当)さんを紹介してくれて。そして、2006年の「ちへい/cafe」からカフェスタッフとして関わりながら、調査をさせていただくことになりました。
現場と研究との間で、どうすれば良い関係がつくれるのか
現在まで、高校生ウィークとの関わりに変化はありましたか。
すごく大きな変化がありましたね。まったく水戸芸術館を知らないところからスタートして、はじめはカフェスタッフをやって、「書く。部」などのプログラムを提供する側になって。で、水戸を離れて2年間アートプロジェクトに関する仕事をしてた時期もありました。そういう流れの中で当然、アートとか地域とかに対する見方も変わってくる。しかも水戸に戻って大学に就職したあとでは、地域の大学教員としても関わることになる。そういう意味でも見え方は相当違ってきますよね。
高校生ウィークに関わりはじめたはじめのころは、研究者としてカフェに関わることに、すごく罪悪感を持ってましたね。それは今もそうなんですけど、とにかく罪悪感が強くて、そのことばかり日記やブログに書いてます(笑) 。
みんなが楽しい場所にしようと思って集まってきているところで、一歩引いた視点で観察してるだけでもイヤな奴だと思うし、「お前は何様だ」って自分に言いたくなる(笑)。しかも、その場で起きたことを、自分の名前つきで論文にして発表するのって、現場を搾取することになるんじゃないか、って思うんですよね。なんか、不当に利益を得ているような・・・。だから、そのことについては、ずっと悩んでますし、永遠に悩み続ける気がします。
罪悪感がその後、別のフェーズに変化することはありましたか。
フィールドワークをはじめてからずっと、現場と研究者の間でどうしたら良い関係がつくれるのかを考え続けているんですけど、その中で、ちょっと何かが見えてきたかな・・・っていう感触は得られつつありますね。もちろん、この問題が決着することはないと思うんですけど。
たとえば、さっきの罪悪感の話。この話って実はずっと森山(純子・水戸芸術館現代美術センター教育プログラム コーディネーター)さんに言い続けているんですが(笑)、そのたびに、「アーティストとか、デザイナーとか、地域の人とか、いろんな人たちがいろんなことを求めてくる中で、たまたま、それが研究だった。それだけのことですよ」って、繰り返し、おっしゃっていただいているんですよね。
あと去年、「写真部」の調査で松本(美枝子・写真家)さんにもインタビューをさせていただいたんですけど、そのときに、「今年の写真部、どうでしたか?」ってはじめに聞いたら、「喜美さんがいてくれたのが、今年はホント良かったと思う」って言ってくれたんですね。
なんか 「写真部」を調査することになったことで、良い意味での緊張感というか、「じゃあやるぜ!」「いいものにするぜ!」 みたいな雰囲気があった気がする・・・っておっしゃっていただいたんです。それを聞いているときに、なんとなく「なるほど、こういうことかな」ってぼんやり思ったりしました。
ゼロ成長社会で生きるための、「閉じられるかたち」
「高校生ウィーク」はどのような場であると思いますか。
いま、社会的包摂(社会に人々を包み込むこと)が失われてる、っていう話をよく耳にしますよね。家族とか地域とか、そういう既存のコミュニティが失われてしまった結果、個人が社会に直接、晒されてしまっている・・・ というような話。高校生ウィークは、そういう問題に対して、私たちは何ができるのかを考えていくために大切な場だと思ってます。
私は、立場上、高校生ウィークに対して違和感を感じてしまう方にお話をうかがう機会もあるんですけど、そういう方々って、高校生ウィークの場に対して「すごく気持ちが悪い」とおっしゃるんですよ。「みんながワラワラ集まってて、内輪な感じで仲が良さげなのが、気持ち悪い!」とか「新しく来たはずの人がなんかすぐに打ち解けてしまうのが、気持ち悪い!」みたいな(笑)・・・。
そういう話って高校生ウィークだけの話ではなくて、自分の関わってきた他のプロジェクトでも聞くことがあるんですよね。その「気持ち悪さ」はどうして起こるのかを考えてるんですけど、それはやっぱり、そのコミュニティがある程度、閉じてるからだと思うんですよ。
でも、閉じてることは、そんなに悪いことじゃないと思う。いま、「開け」「開け」っていう要請があまりに社会から強いから、「閉じる」イコール「悪」みたいに言われるけれど、そうでもないんじゃないか、って思うんです。
開きすぎた結果として、個人が、どこにも自分の居場所を得られないまま、なんとなくひとりで浮遊したまま、社会の中に晒されちゃって、その結果、すごくつらい。社会がある一定の方向に動くと、それで傷つく人たちが大勢出たりしちゃう。だとしたら、家族とか地域とか今まであったコミュニティに代わるもの・・・自分たちで集まって、なにかあったときには閉じられる場所、「ここは私たちの場所だ」って思える人たちが自分たち自身で助け合えるコミュニティを創っていくべきなんじゃないかな。で、そのための、新しい「閉じられるかたち」を、探していく必要があるんじゃないか。もちろん、それが極端になると、自分たちだけで堅い殻に閉じこもるかたちになっちゃうので、開くことも考えないといけないのだけれど・・・。
だから、ある程度開きつつ、ある程度閉じて安心していられるような、「閉じられるかたち」を考えること。それは、これからゼロ成長社会どころか、もしかしたらもっともっと社会が悪くな るかもしれない中で、すごく大切なことなんじゃないかと思うんです。
高校生ウィークの場には、そういう問題に対するひとつの解答のありかたを見いだせるような気がするんですよね。
「閉じつつ開く」ための仕組み
一方で「高校生ウィーク」は1年間に1ヶ月だけの期間限定ですよね。それについてはどう思いますか。
私、「親友」と呼べる人物が1人いるんですけど、もう3年間会ってなかったりするんですよね(笑)。物理的なつながりはなくても、精神的につながっていられる。そういう状態って本当にかけがえないものですよね。そういう、精神的な居場所ってすごく大切だな、と思います。
高校生ウィークの場合もそれと同じだと思ってます。高校生ウィークのカフェがずっとあって、みんながずっとここにいられたら、みんなが閉じていってしまうんじゃないかと思うんですよ。高校生ウィークの1ヶ月間が終わったら、みんな開かれざるを得ない。どこか別の場所で動かざるを得ない。それでも、みんなが「私、高校生ウィークの OBです」っていうアイデンティティを持てる。これってすごいバランスなんじゃないかと思うんです。
コミュニティが存在し続けることで、コミュニティ自体が閉じてしまうことって、けっこうある。だからこそ、「閉じつつ開く」 仕組みをどうつくるか、を考えていかなきゃいけない。そういう意味では、場所的に「閉じる」と「開く」の仕組みを持っているだけじゃなくて、期間的にも「閉じる」と「開く」の仕組みを持っていること、二重に「閉じつつ開く」 仕組みがあるっていうことが、いいバランスをつくりだしているんじゃないかな、と思うんですよね。
最後に、高校生ウィークについて一言お願いします。
私には、高校生ウィークがどういう場であるかを伝えていく義務があると思ってます。・・・この場に対して罪悪感を持ち続けてることもあるので(笑)。 高校生ウィークという場所の意味は、内部にいる人しか経験ができない。外から見たら「気持ち悪い」んですよ。だとしたら、内部にいる人たちが、この場所の意味を自分たちの言葉で伝えていかないといけないと思う。
自分たちで新しくコミュニティが創れるってこと、そういうコミュニティが実際にあって、そこで関わりを育んでいる人たちがいるっていうこと。そういうことを伝えていくことが、よくわからないけど大きな「なにか」を受け取ってしまった私たちに託された義務なんだろうな、って。
と、いうわけで「アーカイ部」、がんばっていきたいと思います!(笑)
いしだきみ
1980 年東京都生まれ、千葉県育ち。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了。博士(教育学)。専門はリテラシー教育。10 代の人々のリテラシー実践を対象にしたエスノグラフィー研究を行っている。東京文化発信プロジェクト室「東京アートポイント計画」プログラム・オフィサーとして、社会文化的学習理論の視点から、まちなかアートプロジェクトを担う人材や組織の育成に携わった後、現職。
反訳・文章:石田喜美/編集:小森岳史・森山純子/写真:石田龍太郎/写真提供:水戸芸術館現代美術センター
取材日:2013年3月3日 水戸芸術館にて