なににも縛られない、その人同士が会えるような場所になればいい

話し手:松原容子さん(画家/水戸芸術館現代美術センターCACギャラリートーカー)

1998年から水戸芸術館現代美術センターで対話型ギャラリートークのボランティアを続けてきた、画家の松原容子さん。松原さんは2000年代はじめの頃から高校生ウィークに関わり、「自分定規ワークショップ」(2007年)や「間取り部」(2008年)など、ユニークなプログラムの提供を通して来場者と交流を深める一方、会場に集う人々を温かく見守り続けてきました。そんな松原さんの目から見た高校生ウィークとはどのようなものだったのでしょうか。
高校生ウィークにカフェが当たり前のようになかったころ、初期の高校生ウィークのお話を中心に伺います。

思いがけないきっかけで高校生ウィークに深く関わることに。

― 松原さんは、高校生ウィークが今のようなカフェという形式に変わっていく時期に深く関わってくださっていますよね。高校生ウィークで起こったことについてやりとりをする中で、松原さんが高校生たちのことを「やわらかねんど」な人たちと呼んでいたのをよく覚えています。そんな松原さんが、高校生ウィークに関わりを持ったきっかけ・経緯を教えてください。

はじめて参加した高校生ウィークは「日常茶飯美」展のときでした。2002年ですね。あの年は、樋口(雅子・東北芸術工科大学広報室/元水戸芸術館現代美術センター教育普及担当)さんが高校生ウィークを担当されたのですが、一緒にお仕事されていた森山(純子・水戸芸術館現代美術センター教育プログラム担当)さんが急に入院したっていう話を聞いたんです。そのことで、あまりにみんながバタバタしていたので、「何かお手伝いできることがあったら」という話を樋口さんにしたら、「じゃあ、高校生ウィークの会場に居て」って。「自分がいろいろ忙しくて、会場に付いていられない時間がたくさんあるので、その間に居てくれるだけでいいから」って。それで「じゃ、行きます」っていう話になりました。

その年は、たしか何か企画が入って、会期途中でワークショップ室からエントランスに高校生ウィークの会場を移動した年でした。森山さんとも後で無事再会できたのですが、それはエントランスホールでしたね。

― 松原さんに対して、高校生たちの反応はどうでしたか?

どうだったのかな。…私の方は高校生を対象に絵の講師をしてたので、さほど違和感はなかったけれど。絵を教える時は、目的や関係がはっきりしているんですよね。でもここでは、高校生たちの目的も、私がここで何をするのかもあやふやで、よく分からない。よく分からないんだけれど付き合っているっていう感じでした。

そんな中での高校生たちの反応は、…変な言い方だけど、「ちょっとバカにしていいタイプの大人がひとりいる」っていう感じかな。学芸員さんのことはやっぱり立てなきゃいけないじゃないですか。だけど私はそうじゃないから、呼び捨てにしたり、「まったくー」みたいなことが言える。そういう領域にすぐに入っていましたね(笑)

― 彼らにとっても、きっとそれは楽しかったんでしょうね。

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「やわらかねんど」な人たちとの間に起こったこと

― 「この子たちが、何でもできると思っちゃってるけど、大丈夫かしら」というようなことを私(インタビューをおこなった森山純子)におっしゃったのは、その次の年でした。

なんか、ものすごくはしゃいでる感じがしたんですよね。タガが外れちゃってるっていうか。彼らにとって、今まで、こんなに自由に、いろんなことが出来る場所はおそらくなかっただろうし。しかもこういう公の場所のなかに、彼らの望みが全て叶っちゃいそうな状況が作られてるということに対して、ちょっと怖い感じがありました。ここでこんなに楽しい経験をしてしまったあと、それがなくなった時に、彼らはどうなっちゃうんだろうな、って。

― 奇しくもその後、その状態になりましたね。卒業されてからの、みなさんとの付き合いの中で。

そうですね。いろいろと要求が多かったですね。卒業して(高校生ウィークのような)場所がなくなってしまったことが大きかったのだろうと思います。水戸芸術館以外の場所で「あれをしたい、こういうことをやりたい、手伝って」とか、個人的な相談をされるようになってちょっと戸惑いました。…どこまで付き合ったらいいのかな、と。

そしてその頃、私、水戸から東京に引っ越したんです。「国連少年」展(2003年)の時には、東京と茨城を行ったり来たりする状況になっていて、そうした時に、「東京で何か出来る場所がほしい」という相談がありました。…継続して何かしてくれるんじゃないかという期待や、仲間意識のような、甘えみたいな、微妙なものです。
 高校生ウィークで、私、やり過ぎちゃったのかな、って思いました。

美大を受験する高校生に、実技の指導をしていた時期が7年くらいあったのですが、そこでも「大学に行ってから自分が何をしていいか分かんなくなっちゃう現象」があると、入学後に聞いたことがある。このふたつの現象って、ちょっと似ているんじゃないでしょうか。

高校生ウィークは、自分がやりたいことを見つけると材料を揃えてくれたり、やり方を教えてくれないにしても環境を作ったりしてくれる。それが大学や一般社会に出ると、一気に出来なくなってしまう。その時に、なくなったことに対する、怒りみたいなものを持つことがあって…それがちょっと暴力的なものになってくると、本人も、関わってる私たちにもつらい経験になりますね。

― それは高校生ウィークに限らず、教育プログラムの中で、大人であっても起こることですね。美術館は、病院ではないけれどもケアする場所でもあるのでこの問題は美術館全体、美術全体の問題に関わってきくると思います。

生活も年齢も全然違う、
高校生とホームレスのおじさんとの間にできた、ささやかな人間関係。

―「高校生ウィーク」で印象に残っているエピソードがありましたら教えてください。

私がいちばん面白かった、というか「あってよかったな」と思うことは、チアキのおじさん(通称。詳細は文中にて)とのことですね。

2002年までは「ポスタープロジェクト」や「広報プロジェクト」など、「やるべきこと」があって高校生たちが活動していたのが、その年(2003年)から急に、高校生ウィークから「やらなきゃいけないこと」がなくなっちゃった。課題はないけど、自分たちは何かやりたい。芸術館の中だけで完結することじゃつまらないから、なにか中の要素を外に持ち出すか、外の要素を中に入れるかしよう。たぶんそういうことを、私も山崎(一希・ブルーカレント・ジャパン AAE/当時は水戸一高生)くんも、当時、考えていたと思います。いろいろなプロジェクトを5つぐらい考えていました。それぞれ職業を持った市民ボランテアであるギャラリートーカーを高校生ウィークの会場に招いて、交流する機会を持ったのもそのひとつでした。

当時、水戸駅の前を通ると、ホームレスなんですが、妙に清潔感のあるおじさんがいたんですよ。脚のない犬を連れていて、通りすがりに「こんにちは」って言うと向こうも「こんにちはー」って言う。ただそれだけなんだけれど、活力のみなぎった感じとか、お坊さんのような格好が、とてもただのホームレスとは思えない。それで気になって仕方がなかったんです。その話を山崎くんにしたら、「あっ!僕もすごく気になってんだよね!」って。それでふたりで会いに行きました。おじさんに「俺たちこういうことをやっているので来てください」って山崎君が招待券を渡したら、次の日に高校生ウィークの会場に来てくれたんです。
そのホームレスのおじさんが連れていた犬の名前がチアキ。私たちは「チアキのおじさん」って呼んでいました。

あの時は、高い塀を乗り越えられた気がして、楽しかったです。芸術館とホームレスってとても遠い存在だと思っていたので。

― チアキのおじさんには、どんなお話を聞いたんですか?

彼は、九州の人だったのかな。放蕩して、家族とか財産とか仕事とか、とにかくなにもかもなくしてしまったそうです。それで放浪を始めた、四国へ行くと、途端にお遍路さんになれるそうなんです。お遍路さんには地元の方が接待してくれますね、足りないものは用意してくれるし、食事も出してくれる。その居心地の良さに、また自分の悪いところが出て甘えてしまって。それで結局、4周したんですって(笑)でも4周目には、さすがに「あなたはずるい」って言われたそうです。『仏の顔も三度まで』っていうことですね。そこで四国を出て、…で、水戸まで。

当時50代後半か、60代の初めでしたか、水戸には3ヶ月ぐらい居て、ホームレスになったばかりの人たちに、ホームレスとしてのあり方みたいなものを伝授していたようです。最終的には仙台まで行くのがチアキのおじさんの目標でした。その後、寒くなる頃には水戸から流れていって、またどこかで居心地が良くて半年ぐらい居着ていたらしいけどまた出発して…と聞いています。

お花見とかも行ったな、そのおじさんと。エコに興味のある子達は一緒にゴミ拾いをしたりして。すっかり仲良くなっちゃって(笑)…あの、なんていうか…すごくこう、薄い関係ですよね。どこかで会って、また絶対に離れていく。お互いに名前も知らないし、住所も知らない。…そういう人たちと、一瞬なんだけど、一緒にお花見に行って、「おにぎり2個持ってきてね」みたいな…すごくささやかなお花見の、その無欲な感じがすごく美しいと思ったんです。「この人と関わっていてどうなるか」とか「このつながりができたことで自分にどんなプラスがあるか」とか、そういうことを全く考えない人間関係。生活も年齢もバックグラウンドも全然違う、高校生と宿無しのおじさんとの間に、そういう関係ができるのがちょっと素敵だな、と思いました。

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― 松原さんは、「自分定規」(製図用の三角スケールを模した木片に自分なりの目盛りを付けていくワークショップ)のワークショップも、ライフワークのように行われていますね。

「自分定規」は、はじめ、近しい友達にやってもらっていたんですよね。それを森山さんにもやってもらおうと思って、「こういうのを作ってるから、森山さんも作ってよ」って言ったんです(笑)そしたら、高校生ウィークのワークショップとして取りあげてくれて。その時に初めて不特定多数の方に取り組んでもらったのですが、自分が思っていた「自分定規」を、はるかに超えた感じのものがいっぱい集まって、「私が考えていたことって狭かったんだなぁ」とつくづく思いました。そういう意味では、今も自分がまだ「自分定規」に追いついてない気がするんですよね。もっと経験を積まないと、本当の「自分定規ワークショップ」ができないんじゃないか、と思ったりしています。

私の中で高校生ウィークに関わったことと「自分定規」は今でも強く結びついている(笑)。

自分を縛っているいろんなものから離れて、人と人が出会える場所だといい。

― 高校生ウィークでの経験から、影響を受けたことはありますか?

いっぱいあると思います。人が成長して行くための場所が必要だということを、当時はとても強く思いました。究極的には個人の家でもいいとは思うのですが、やっぱり外に、その気があれば誰でも入れる、っていう場所があるといいですよね。いつもは年齢や職業や性別など似たもの同士が固まりあっているけれど、自分を縛っているいろんなものから離れたところで、人と人とが出会えたことで、過去に向けて、あるいは、現在、未来に向けてなにか大切なものが見えてくる・・・そういう機会があるといいですよね。

高校生ウィークは、学校とは全く違う場所になってほしい。そのために、まずは学校がどういうところかをリサーチしていくことが必要なのかもしれませんね。


まつばらようこ
画家/水戸芸術館現代美術センター CACギャラリートーカー
絵画教室の講師。地域や人の歴史と今との関わりをめぐる活動をもとに、絵画やインスタレーションなど展示できる作品を制作したりそれぞれの年齢や性別、出生や立場などを越境してゆく関係性を創り出す試みを重ねています。ライフワーク「自分定規プロジェクト」は、2002年高校生ウィークがきっかけではじまりました。

聞き手:森山純子 反訳:本間未来 文章:本間未来・石田喜美 編集:小森岳史・森山純子 写真:高羽秀美 写真提供:水戸芸術館現代美術センター
取材日:2013年4月4日 水戸芸術館にて